異体同心事 2015年2月度 御書講義(御書学習会)

2015年2月度 御書講義(御書学習会)「異体同心事」

御書講義 拝読範囲:
 御書全集   1463ページ 1行目 ~  7行目
 編年体御書   792ページ 1行目 ~ 7行目

 「 はわき房さど房等の事 ~ 此の一門も又かくのごとし 」

大変に久しぶりとなってしまいましたが、

2月度御書講義の 「異体同心事」 の講義用資料を作成しました。

宜しくお願い致します。

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2015年2月度 教学の日 御書講義 「異体同心事」

【挨拶】
(地域の状況に応じて挨拶など入れてください。)

それでは2月度の御書講義を始めたいと思います。
大白蓮華2月号の46ページを開いて下さい。

今回の拝読御書は「異体同心事(いたいどうしんじ)」です。

今回の御書講義で、なぜ、「異体同心事」を学ぶのか?
一言で言えば、それは、「広宣流布の活動を、私たちの団結で勝利していくため」 です。

このあたりも考えながら、はじめに、「背景と大意」を確認していきたいと思います。


■背景と大意

それでは、47ページ下段の「異体同心事」の背景と大意を確認しておきたいと思います。
(P47下段【異体同心事】の「異体同心事は」~P47最後から4行目「推定されています。」を読む)

御書を拝読する上で、ご執筆の時代背景を確認することは、非常に重要です。
--- どのような背景や事情があって御書を書かれたのか? 誰に、何のために書かれたのか?
そのために、この「背景と大意」を押さえておく事が大切です。

この「異体同心事」は、“御述作の年月や、送られた人が不明” との事ですが、“文永の末から建治年間にかけての頃” とあります。
この時期が、どのような状況だったのかを確認しておく事が、研鑽を深める上で大事です。

“文永の末”は、丁度、大聖人が身延入山される頃です。そして “建治年間” とは、“文永” のあとの約3年間で、その次に “弘安年間” へと続きます。
建治年間につづく弘安年間に何があったか?
弘安2年には「熱原の法難」があり、それを機に、大聖人が出世の本懐をとげていく、という時期です。

もう少し詳しく、この頃の状況を確認しておきます。
大聖人が身延に入られた文永11年の頃より、日興上人を中心に弘教が進み、他宗の僧や在家の人たちが次々に大聖人に帰依していっていました。
このような動きに、熱原の滝泉寺で住職代理をしていた行智が危機感をつのらせ、権力を利用し謀略を巡らせて、大聖人門下へと弾圧を開始していきます。
のちに、こうした迫害は、農民信徒20人が逮捕され神四郎・弥五郎・弥六郎の三人が斬首される「熱原の法難」へと発展していくことになります。

したがって、そのような熱原の法難へと続くような、大聖人門下にとって、様々な迫害の動きが出てきていた頃のご執筆であるという事を、まず押えておきたいと思います。

そして本抄の内容については、大白蓮華の47ページの最後の3行、先ほどの続きですが、
(P47下段【異体同心事】の最後の3行「本抄では」~P47最後「教えられています。」を読む)
とあります。

この「異体同心事」は、この駿河の地にあって、やがて法難に発展していく緊迫した状況の中でかかれたご指導です。
そして、大難は、もちろん起こらない事が一番ですが、しかし、それを乗り越えたときに、広宣流布への発展へとつなげていくことが出来ます。
その意味では、大悪を大善へと転換することが出来るといえます。

その大難を乗り越えていく要諦として、「異体同心」の団結を強調された御書であると拝することができます。すなわち、駿河の地は、いつ法難が起きても不思議ではない状況であるからこそ、魔を打ち破る鍵は、どこまでも信心の団結にしかないことを、明快に教えられていると拝することができます。

なお、この「異体同心」は、これまでも何度も学んできた法理です。
そして、この「異体同心」は、単に“団結しなければ勝利できない”という戒めの話に終わるのではなくて、実は、「異体同心」を目指す中に、一人一人の広宣流布を目指す信心が深まり、また、師弟不二の信心が強くなっていく。そして、一切の勝利は「異体同心」の組織を構築できるかどうかにある。
それが、「異体同心」を私たちが学び実践していくポイントとなります。この点を再認識する意味で、今回は「異体同心事」を拝読していきます。

それでは、55ページを開いてください。
今の内容が、中段の「拝読のために」のところに書かれています。
(P55中段【拝読のために】~L9「教えられています。」を読む)

「異体同心」とは、「魔を打ち破る法理」である、という事です。
このことに関しての先生のご指導を、確認しておきたいと思います。
上段にある池田先生のご指導の「1」です。
このご指導は、私たちが今回の御書講義で「異体同心事」を学ぶ結論ともいえる内容になります。
(P55上段【1 我ら創価の誉れの歴史】を読む)

では、この “学ぶ目的” を確認しまして、具体的に本文に入っていきたいと思います。

■本文

それでは、52ページを開いてください。

最初に、今回の拝読範囲全体の展開の流れをつかんでおきたいと思います。

今回の拝読範囲は、4つの段に分かれます。
まず最初の段では、異体同心について、一般の原理として「世間でも言われていることだ」と示されます。
そして、次の段では、そのことを中国の歴史を例に説明されます。
そのあと、後半の2つの段では、大聖人の一門と日本の人々を対比して、大聖人の門下にとって「異体同心」とは、という事を教えられていきます。

■第1段

はじめに一つ目の段は、本文冒頭の「はわき房(ほうきぼう)」から、5行目の「定まりて候」 までです。
最初に題号を読みますので、それに続いて第1段を拝読しましょう。
(本文 P52L1「はわき房」 ~ P52L5「定まりて候」を拝読)

はい、有難うございます。
では、続いて下の通解を確認しておきます。
(通解 P52L1「伯耆房(日興上人)」 ~ P52L9「記されています。」を読む)

本文1行目の下に、「あつわらの者ども」とありますが、上の段の語句の解説にも書かれていますが、駿河の国の熱原郷の門下たちのことで、日興上人のもとで弘教を展開し、権力による弾圧を、当時もう既に受けていた、という事です。そして、この状態が、後に「熱原の法難」に繋がるわけですが、大変な緊迫した状況になるという事で、大聖人が激励をされていく内容となります。
そして、そのポイントは、“熱原の門下たちが「異体同心」であれば、万事を成し遂げていける”、と激励されているように、「団結が勝利の要諦である」という事です。

本文では続いて3行目より、また逆に「同体異心」であれば、何も成し遂げることはできない。
そして、この「異体同心」と「同体異心」については、「外典三千余巻に定まりて候」 と、“一般の原理として世間でも言われていることだ ” と示されていきます。

では、この「異体同心」と「同体異心」がどう違うのかを、「拝読のために」で確認しておきたいと思います。
55ページを開いてください。下の段の2段落目 「『異体』とは」 からですが、
(P55【拝読のために】 下段L7「『異体』とは」~最後「示されています。」を読む)

この「異体」と「同心」について、池田先生は、御書講義の中で、次のようにご指導されています。
-----
あらためて確認すれば「異体同心」の「異体」とは、それぞれの個性、特質、立場等が異なることです。
「同心」とは、一般的に言えば目的観や価値観が同じことです。また、高い目的観や価値観を実現していこうという意志が一致していることでもあります。
仏法のうえで言えば、仏の心であり遺命である「広宣流布」を我が使命として自覚し実践し抜いていく「師弟不二の信心」にこそ、「同心」の核心があります。師と同じ精神に立って、戦いに挑み、勝利することが「異体同心」の根幹です。
また「異体」との仰せがどこまでも重要です。いわゆる「一心同体」などの表現ではなく「異体同心」と仰せられているところに甚深の意味を拝することができます。
すなわち「同心」といっても、一人一人の個性を殺すことはありません。「妙法」によって、一人一人の可能性が最大限に発揮されたときに、「異体同心」の大いなる力が現われるのです。
仏は、すべてのものを結びつける宇宙根源の力を発見しました。それが「妙法」です。さらに、人間が、その妙法の力を自分の生き方として現しうる可能性をもっていることをも発見しました。それが「仏性」であり、「法性」です。
一人一人の人間が、この仏性の智慧を現すことによってのみ、仏法における「異体同心」が成り立つのです。一人一人が、我執を超えて、最高の可能性と個性を発揮していくゆえに、「異体同心」は絶対勝利の軌道になっていくのです。
-----
と。

そして、大聖人は、「異体同心」こそが勝利の要諦であることについて、先ほども確認しましたが、「外典三千余巻に定まりて候」と示されています。文化と思想の大国である中国でも、異体同心こそが事を成就するための要諦であることは確固たる定義として通っているということです。
そして本文の次の段で、この定説の典型的な例として、「殷の紂王と周の武王の戦い」 を取り上げられています。

それでは、本文に戻りたいと思います。
52ページに戻ってください。

■第2段

続いて、本文第2段となります。
第2段は、52ページ後ろから2行目の「殷(いん)の紂王(ちゅうおう)は」 から、次の53ページ最後の行の「成ず」までです。

それでは皆さんで第2段を拝読しましょう。
(本文 P52L5「殷の紂王は」 ~ P53L6「成ず」を拝読)

はい、有難うございます。
では、続いて52ページ下の通解を確認しておきます。
(通解 P52L10「殷の紂王は」 ~ P53L8「遂げることができる。」を読む)

では、もう一度、53ページの本文に戻ってください。

本文、第2段のはじめに、「殷(いん)の紂王(ちゅうおう)は七十万騎なれども」 とあります。
この「殷の紂王」については、53ページ上の段の語句の解説にも書かれていますが、中国古代、紀元前11世紀ごろの殷王朝の最後の王になります。日々、酒宴を繰り返して贅沢の限りを尽くし、そして民衆には重税を課すなどの暴虐な政治を行ったと言われています。

これに対して、本文53ページ1行目に登場する「周の武王」は、同じく語句の解説で、「殷の紂王を破って、周王朝を創始した王」となります。周で善政を行い、人々の信望を集めていました。

ここでは、「殷の紂王」は70万騎もの大軍であったが、「同体異心」であったので、戦いに負けてしまった。
そして、「周の武王は八百人」とありますが、この八百人とは、全体が800人の軍勢と言うわけではなくて、800の諸侯、即ち800の臣下・リーダーの集まりの軍勢で、実際にはもっと大勢であったようです。一説では、「この時の周の兵力は戦車300乗、士官3000人、武装兵45000人であった。」とのことです。それでも殷の紂王の70万に比べると、はるかに及びません。常識的に考えれば、圧倒的に力が違い、殷の優勢は揺るぎません。しかし、周の軍勢は「異体同心」であったので勝った、と述べられています。
今から3000年以上も昔の王朝が代わった出来事になりますが、実は、この戦いは、あっと言う間に終わってしまったそうです。
その様子が、「拝読のために」に紹介されています。
56ページを開いてください。真ん中の段の後ろから5行目の「しかし、『史記』などによると」からです。
(P56【拝読のために】 中段L14「しかし『史記』」~下段L11「証明されていることです。」を読む)

この様に、周の武王の軍勢は「異体同心」であった。だからこそ、70万の大軍を破ることができた。この事を大聖人は、この歴史上の事実をもって、世間一般の「異体同心」の例として述べられているのです。

ここで、池田先生のご指導を、確認しておきたいと思います。
56ページ上段のご指導の「2」です。
(P56上段【2 善の勢力を結集】を読む)

ここで先生が強調してくださっているのは、文王、この文王は、周の武王のお父さんですが、この文王にしても武王にしても、“礼” とか “孝養” を大切にした立派なリーダーであったという事で、このリーダーが人間として立派であったから、周という国が長く栄えていった、とのことです。
先生が強調されているのは、人間を大切にするリーダーかどうかで決まるという事です。
そして、その人を中心として、「異体同心」の団結が生まれてくるという事です。

今の時代で言えば、民衆中心なのか、自分中心なのか、その観点で見た場合に、この違いから、「異体同心」と「同体異心」の違いが生まれてくると言えます。
私たちの次元で言えば「民衆の力」を高めるためにリーダーが「一人立つ」ところから一切が始まる。そして、その理念に同志が賛同し糾合し「異体同心」の実践で、悪と戦い、悪を破る。そこに、広宣流布における民衆勝利の方程式が示されているといえます。
「一人立つ」実践と、独裁とは根本的に違います。確かに、「一人立つ」勇者には、その責任感から、果敢な決断が必要な時がある。しかし、真の指導者は、独裁者と異なり、同時に、大勢の真摯な意見に耳を傾けるものです。
民衆を中心にしたならば、ここから「異体同心の団結」が生まれ、そして勝利していけるのです。

それでは、もう一度、53ページの本文に戻ってください。
第2段の後半になりますが、2行目の下からですが、大聖人は次のように仰せです。
(P53 本文L2「一人の心なれども」~L6「成ず」を読む)

ここでは、改めて「同心」(=同じ心)の大切さを強調されている内容となります。
“一人の人間の心” であっても、「二つの心あれば」 とありますが、即ち、迷いがあって心が定まらない状態です。これは、一人の心に異なった心がある状態となり、「異心」であると捉えることができます。迷いがあって心が定まっていなければ、何事も成就できないという事です。自分の心が定まっているかどうか、それが先ず大事となります。

大聖人は、この様に、“一人の人間の心” を取り上げた後に、次に、“大勢の人” について述べていかれます。「百人・千人なれども」と、大勢でも、“心が一つ” であれば “必ず” 物事を成し遂げる事ができると仰せです。

ここで 「一つ心なれば」 と言うところが重要です。
言い換えれば、“私たちが心を一つにする” という事が、勝利を築いていく最大の要因である、という事になると思います。
まして、広宣流布を進めるに当たっては、この「異体同心」、“私たちが心ひとつにして戦っていく” ということがどれだけ大事であるかは言うまでもありません。

第2段は、以上となります。

ここから後は、いよいよ大聖人門下の異体同心の原理について教えていかれます。

■第3段

それでは続いて、本文第3段に行きたいと思います。
第3段は、53ページ最後の行の「日本国の人人は」 から、54ページの5行目の「覚え候」までです。

それでは皆さんで第3段を拝読しましょう。
(本文 P53L6「日本国の人人は」 ~ P54L5「覚え候」を拝読)

はい、有難うございます。
では、54ページ下の通解を確認しておきます。
(通解 P54L1「日本国の人々は」 ~ P54L7「あろうと思っています。」を読む)

第3段は、“広宣流布成就の条件” を述べられた箇所となります。

53ページの最後の行で、「日本国の人人は」 とありますが、本文の内容に入る前に、大聖人の御在世当時の日本がどうであったかを確認しておきたいと思います。
この当時の日本は、幕府内でも争いが起こり、また、蒙古襲来の危機にも直面していました。
この様な、最大の国の危機に直面していても、確たる哲学や宗教もない。そして、そのような状況のなかで、民衆は置き去りにされていました。まさに、「国中がバラバラ」、といった状態でした。

この様な状況の中でも、ただ、“大聖人を迫害する”という事においては、同じ方向を向いていました。
本文で、「日本国の人人は多人なれども体同異心なれば」とありますが、ここで言う「日本国の人々」とは、大聖人一門の法華経弘通に反発する当時の人々です。このような「日本国の人人」は、大聖人一門を迫害するという事では共通していて「体同」でしたが、それぞれの利害で行動していたので、本質は「異心」でした。

また、当時の大聖人門下はどうだったかと言うと、弘教が進んでいたといっても、まだまだわずかの勢力です。一方、相手は幕府の権力を使って迫害をしてくるわけですので、 “ あっという間に潰されてしまうのではないか ”、と大聖人門下は思っていたのではないでしょうか。

そのような中で大聖人は、「多人なれども」とあるように、どんなに大勢であっても、その本質は「体同異心」であるので、何事も成就することはできない、と断言されています。
大聖人の、「何も心配する必要はない。何も畏れる必要はない。」との大確信の激励です。

これに対して、本文54ページ2行目で、「日蓮が一類は異体同心なれば」と続きます。
大聖人の一門は、“ 異体同心であるがゆえに、確かに人数は少ないけれども、大事を成就する事ができる ” と仰せです。
ここで「大事」とありますが、ここでは、「民衆の苦悩の根本原因を取り除き、そして、平和の楽土を築くこと」を指しています。言い換えれば、仏法を行じて、一人一人の幸福の実現と、同時に、この国を、この社会を良くしていこうという 「立正安国」 を目指していく戦いとなります。
このような「大事」、偉大な目的のために心を合わせて「異体同心」で戦っているのだから、最後は、本文にあるように「一定法華経ひろまりなんと覚え候」です。「一定」とは “必ず” と言う意味です。「異体同心」実践があれば、必ず法華経が弘まって広宣流布ができる、と御断言されているのです。
また、「異体同心」が広宣流布実現への条件であるといえます。

ここで、このことについての池田先生のご指導を確認しておきたいと思います。
57ページを開いてください。上段のご指導の「3」です。
(P57上段【3 「善き友の集い」が根本】を読む)

「広宣流布」の成就には、この「組織」が必要である。そして、この組織は「異体同心の組織」でなければならない、ということになります。

そして、この「広宣流布の成就に、異体同心の信心が不可欠である」という事は、“生死一大事血脈抄”の一節でも述べられています。同じ57ページの下の段の、後ろから4行目に御文がありますので、先生のご指導とあわせて確認しておきたいと思います。
(P57【拝読のために】 下段最後からL4「総じて日蓮が」~P58下段最後までを読む)

繰り返しになりますが、「同心」とは、「広宣流布を目指す心」、そして「同志を尊敬する心」、そして「師弟不二の心」で、この3つが揃ったときに、本当の「異体同心」ができるという事になります。
私たちの信心でいえば、自分の心を、この「広宣流布」と「同志」と、そして「師弟」に定めていくという事が、自分自身の人間革命であり、また、本当の意味での仏道修行となるのではないでしょうか。
異体同心とは、その意味では、自然とできるものではなくて、私たちが仏道修行のなかで人間革命をしていくことで出来上がってくるものと言えます。

第3段は、以上となります。

■第4段

それでは最後に、本文第4段に行きたいと思います。
第4段は、54ページ最後から4行目の「悪は多けれども」 から、本文最後までです。

それでは皆さんで第4段を拝読しましょう。
(本文 P54L5「悪は多けれども」 ~ P54L8「又かくのごとし」を拝読)

はい、有難うございます。
では、54ページ下の通解を確認しておきます。
(通解 P54L8「悪は多くても」 ~ P54L12「同様である。」を読む)

ここでは、2つの対比が示されています。
最初に「悪」と「一善」。そして次に、「多くの火」と「一水」との対比があります。
「多くの火」であっても、ただ一つ、この「一水」があれば火を消すことができる。
「多くの火」とは「悪」のことであり、また、この「一水」というのは、「一善」であり“大聖人の一門”のことであります。

まさに、向こうの「悪」の勢力、大聖人一門を弾圧してくる勢力がどんなに多くても、「一善」に勝つことはない。そして「此の一門も又かくのごとし」、日蓮の一門も、この「一水」の如く、「悪」に勝っていけると仰せです。

しかし、ここで大事なのは「多くの善」ではなく 「一善」 とあるように、一つに団結して、「善の連帯」を築き上げていくことが、悪の勢力を打ち破っていく上で大事なことです。

やがて熱原の法難に発展していく当時の状況にあって、「悪」に対してこの「一水」、「団結した一善」があれば、必ず打ち破ることができる、という大聖人の大確信です。

それでは、この「善の連帯」について、「拝読のために」で確認しておきたいと思います。
59ページを開いてください。真ん中の段です。
(P59【拝読のために】 中段L5「法華経に敵対し」~下段最後までを読む)

ここで心がけていきたいのは、今の御文にもありましたが、「皆、仏だから」と、「皆が仏である」という仏法の根幹の思想であると思います。

このことについての池田先生のご指導を確認しておきたいと思います。

58ページの上段のご指導の「4」と、59ページの「5」です。
(P58上段【4 互いに尊敬しあう心】、P59 上段【「共に励まし」前進を】を読む)

本当の意味での「異体同心」は、妙法の力がなければできません。
それと共に、私たち一人ひとりの誓願の力が、異体同心を築く源泉となります。

今回の御書の学習は以上となります。

■最後に
(各自、感じたことや決意など、それぞれの立場で追加してください。)
以上です。有難うございました。

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